2017-06-03
北川恵海さんの原作は半年くらい?前に読了。
浦和のユナイテッドシネマにふと立ち寄ったときに、発見。
原作のイメージがあるので、いつもなら回避するところだけど、今回はちょっと見てみようかな、と思い立った土曜の昼下がり。
工藤亜須加くん。
真面目で誠実で擦れてない「(ある意味で)ぼんくらちゃん」具合が果てしなくて、正直なところ驚いた。
今回、原作を読んでいるからこそ原作と映画の乖離が必ずあるであろうことを乗り越えて、この映画を見てみようと思ったきっかけは、彼、ではあった。
ネットで予告篇を見た。
動きが、静かでスムースで。
それで、観たい、と思った。
反抗できず自暴自棄にもなれず自分を押し殺し続けてそれが当たり前で自室でも自分の世界を作ることも守ることもできず親の好意という実家からの荷物に嫌悪さえ抱く正社員就職絶対教とでも表現しなければ説明のつかないがんじがらめの生活から逃れる方法が唯一「であいがしら」の自死と言う世界観。
そのくせ、軽さをも感じさせるのは、工藤演じる青山隆の「(ある意味で)ぼんくらちゃん」が心底しっかり「ある意味で)ぼんくらちゃん」であるからなのだろう。
工藤亜須加という役者を、僕は観たかったんだ。
福士蒼汰くん。
息子と一緒に見ていた「宇宙キターっ!」からの、蒼汰くん。
今回は目がよかったなー。
これは本人とは関係ないけど、アロハで居続けることがなんか不満。そしてそれが原作にはないバヌアツに根拠があるってことに不満。福士演じるヤマモトの「影」の部分が薄くなってるし自死の双子のもうひとりの「自分」を鏡で見ることへの耐えられなさや逃避や後悔や執着や時に耐えられないような瞬間をもうひとりの自分を実は支えにしつつ生きているからこそ青山の関わっていった(であろう)心の動きにまで至る「構成(つくり)」にはなっていなかったのではなかろうか。
これは役者の課題ではなく、脚本の問題。僕には「問題」として感じられた。それでも役者は僕が感じる脚本の問題とはかかわりなく「いい目」を見せてくれた。それは多分、工藤演じる青山のことが、福士演じるヤマモトにとって心の底から心配でそしてかけがえのない友人になっていったからだろう。
ただ、体の使い方が単調。
ラストの2人の握手は、ヤマモトの気持ちが見えなかった。
黒木華さん、吉田鋼太郎さん、小池栄子さん、森口瑤子さん、池田成志さん、素敵な皆さんです。あ、池田さんはほんの少し伏し目の方がよかったかな。
工藤演じる青山のメインストーリーに対して、福士演じるヤマモトのセカンドストーリーをバヌアツのきれいな空と海に求めるのではない方が僕の好みであり原作へのリスペクトではないだろうか。そうすることで青山のストーリーももっと深くなるだろうし服装も白を基調とした私服VSダークなスーツということにもならんだろうし汚い部屋で真っ白なワイシャツでいつそんな洗濯とかクリーニングとかしてんのさみたいなやけに目につく不整合な日常生活みたいなことにはならなかったし。
あー、返す返すも脚本がラフ。隙間を役者のスキルに任せて埋めるというのは脚本なのか演出なのかなんなのか幹がない。鬱蒼とした映画という森の中を、目的地なく歩くような。いや、森はあるけどいまのところ育っているのは杉2本とヒノキが1本の先にヤシの木10本とマングローブが見えてます的な状況とルートでどんな草木がその間に茂っているかを「さあみんなで考えよう!」って方が印象表現としてはあってるのか。
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